横山隧道建設(大正12年完成)

横山隧道建築(大正12年完成)
横山隧道の画像
日本の高度経済成長と菅江の近代化
日本の高度経済成長と菅江の近代化

簡易上水道の完成

昭和三十三年(一九五八)に山東町内では、いち早く簡易上水道が完成した。高屋を水源とし、それまでの井戸からの水くみ作業から解放された。井戸から風呂へのバケツでの水入れは、子供の手伝いの一つでもあった。

しかし、水源の水は豊富ではなかったので、渇水期には時々断水する家もあった。今でもため池の奥に水源跡と、入り口左側に二つの浄水場跡が残っている。

高屋池の入り口附近にある浄水場跡。取り壊されることなく現在も二基、無用の長物のように残っている。これが何であったか知る人も少なくなってきた。

菅江会館の完成

平成七年に(一九九五)菅江会館が完成した。米原市の補助金と住民の寄付金を基に、総工費約四千二百万円であった。それまでは一階が作業場、二階が会議室として使用していた「会議所」があったが、老朽化のため平成三十年に取り壊された。

農村下水道の完成

下水道が完成するまでは、家庭からの排水はすべて川に流されていた。全国的に環境汚染が大きな問題となってきた。そのため、昭和六一年に米原市のモデル地区として市内では一番初に下水道が完成した。下水道の完成により、本当の近代化と文化的な生活を実感した。この農村下水道は、菅江単独の下水処理場であったため、令和元年に本管に繋ぐ工事が完成し、現在は使用されていない。

昭和四十年頃までの家屋

日本中どこに行っても田舎の民家は茅葺き(または葦)で平屋建ての家であった。中に入ると入り口は土間、その奥にかまどや風呂があるのが一般的で便所は外にあった(小便場は家の中)。

屋外にあった便所は取り壊し、今では見られなくなってしまった。家の建て替えにより屋内に水洗便所が設置され不用になってしまった。月に一度や二度、溜まった糞尿を畑などに捨てに行った。畑の作物にとっては、良い肥料であった。畑に捨てに行くことを「肥持ち(こえもち)」と言って人糞をいれた桶を天秤棒で担いだり、リヤカーで運ぶことは重労働であった。便所から数が離れた場所に井戸がある家も多く、今から思うと不衛生であった。

菅江では、昭和三十年代の中頃から後半に瓦屋根の二階建てに建て替えた家が三軒ほどある。また、それ以前に建て替えられた家も三軒ほど存在していた。これらの家には、現在の家では見られない珍しいものが残っている。「かまど」から出る煙抜きである。

家の普請

昭和四十年頃から、家の建て替えが始まった。それまでは、茅葺きの家がほとんどであった。家を建てることを普請といい、親戚全員が手伝いに行った。住民全員で土木作業などを行う川普請、山普請などから、そのように呼んだのだと思う。当時は、クレーン車などはなくて、全てが手作業であった。

すべてが手作業

  1. 自分の山から木材を切り出して建てる家もあった。
  2. 木造土壁の家。壁土や竹も各家で調達した。
  3. 紅柄塗りの家。何日も前から親類が手伝った。
  4. 基礎は石を使い、人力で固めた。
  5. 棟木(じ棟)を上げる時は、何本もロープを使い、大勢が「祝い歌」を歌いながら引き上げた。
  6. 棟上げがすみ、一段落すると夕方から棟梁を主賓に、手伝いの人全員で祝賀会を行った。
  7. 昭和四二年の大工の賃金は、一日千五百円であった。途中から二千円になった。

農業からサラリーマンへ

国鉄は最大の就職先

日本国有鉄道(現JR)は昭和二十四年(一九四九)に旧運輸省の外郭団体として発足した。米原駅は、東海道本線と北陸本線の分岐点として、また経済の発展と共に貨物ヤードの操車場、機関車、客車等の整備拠点として重要な役割を果たす駅であった。昭和三十九年(一九六四)当時は、駅関係の職員だけでも四百五十人ほどの人が働いていた。その他、機関区、客貨車区、車掌区等を加えると相当数の人が働く職場であった。菅江をはじめ旧山東町の住民にとっては、家業の農業に従事しながらサラリーマンとして働く恰好の職場であった。菅江で見てみると昭和から平成にかけて国鉄で働いた人は十四世帯、十八人もいた。しかし現在JRに勤務している人は皆無である。

鉄道友の会(鉄友会)

菅江には国鉄に勤務する人が大勢いて、その人達の親睦団体である「鉄友会」なる組織があった。正月には会長宅に集まり酒を酌み交わしながら新年の挨拶を交わすなど交流は活発であった。慰安旅行の開催など交流は活発であった。

生活の変化

年に一度しか現金収入のない農業から、毎月一定の現金が入るようになり、人々の生活は日本の高度経済成長に後押しされながら豊かになっていった。昭和四十年代から家屋の建て替えが一斉に始まったことは、最も顕著な例である。

国鉄時代の思い出

1  


父は機関区、私は車掌区に親子でわずかな期間ではあるが国鉄に勤務した時があった。そして、偶然に同じ列車に乗務したことがあった。駅を発車する時に私が機関士の父に無線機で発車合図をすると父から「わかってるわい」と言う返事が返ってきた。
2


当時の踏切は、今のように自動ではなく手動であった。東海道本線の主要な踏切では列車が通過するたびに職員が遮断機を降ろしていた。ある時、列車の轟音に気づきあわてて遮断機を降ろしたが間に合わなかった。事故が起こらなくて良かったと胸をなでおろした。

三公社五現業?

この言葉を知っている人は少なくなってきた。高校生の就職試験には「三公社を答えよ」という問題が出題されたのを覚えている。三公社とは日本国有鉄道、日本専売公社、日本電信電話公社である。一九八〇年代にすべて民営化された。現在のJR、JT、NTTである。

死語になった『舶来品』

現在では、「メイドインジャパン」が世界の信頼の称号となっている。それまで日本の製品は「安かろう悪かろう」であった。イギリス製、ドイツ製、アメリカ製などの輸入品(舶来品)に憧れたものである。これらは、「庶民の高嶺の花」であった。パーカー(アメリカ)やモンブラン(ドイツ)の万年筆を手に入れた時は誇らしげに思えたものである。

一ドル=三六〇円

戦後の日本からの輸出品は、子供のおもちゃ、たわし、歯ブラシなどの日常雑貨品が主であった。ドルとの交換比率は固定相場制がひかれ、一ドル=三六〇円という水準からスタートした。外国人にとっては品質はともかく日本製品は安く買えた。

その後、日本の貿易黒字が増大し一九七三年より変動相場制に移行し一九九四年には一ドル=一〇〇円を突破。一九九五年には七九円となり円高ドル安傾向が続き日本企業にとっては輸出が困難な時代へと変わっていった。

近代化にともなう思いで話

テレビの人気番組は、大相撲中継とプロレス。特にプロレスは力道山、外国人レスラーをダウンさせる場面は、最高に盛り上がった。敗戦後、日本人は欧米人に劣等感を抱いていた。その外国人を日本人レスラーが倒すので優越感にひたり、テレビの前で大歓声をあげていた。ある朝、学校に登校する時、六年生の人から力道山が死んだことを聞かされた。あれほど強かった力道山なんて、全く信じられなかった。授業中も勉強の事など頭に入らなかった。力道山の得意技は、空手チョップであった。

脱水機付き電気洗濯機がわが家に来た。確かナショナル(現・パナソニック)だったと思う。脱水機は、ゴムのローラーが上下二本あり、そのローラーに洗濯物を挟んでハンドルを回して水を絞っていた。下着やカッターシャツは絞れたが、厚めの生地の衣類は無理であった。残り少なくなった歯磨きチューブを、ローラーに挟んで絞っていた人もいた。

私の家が電話機を導入した頃は、今のように直接相手の番号にかけるのではなかった。まず、電話をすると電話交換手に繋がり、電話をしたい相手の番号を告げるのである。そして、交換手が相手の番号についてくれるのである。この地域の電話交換所は、市場の郵便局であった。自宅と郵便局を兼ねた交換所であった。私が電話をした時、その自宅で宴会をしておられた様子で、宴会の声が大きくて交換手の声が聞きづらくて困ったことがあった。

上の文中の電話機は、写真のような電話機ではない。ダイヤルの代わりに電話機の右側にハンドルが付いていた。ハンドルを回して交換手を呼んだ。

東京オリンピック(昭和三九年)開催に向けて東海道新幹線工事が始まった。学校の帰りに土盛りされた土手に登り、工事関係者の人によく怒られた。また、砂運搬のダンプカーが、ひっきりなしに走っていた。土砂運搬のダンプカーで走っている運転手さんもいた。「乗せたろか」と言って止まってくれるのが嬉しかった。北方付近を走っているダンプカーに手を上げて乗せてもらうのが嬉しかった。運転手さんもいた。

テレビのカラー放送が始まった頃、番組の二割程度がカラー放送で、残りは白黒の放送であった。私は、叔父とその娘(5才の女児)の三人でプロ野球を見に行った。今はない南海(現・ソフトバンク)と阪急(現オリックス)の試合だった。帰りに「野球どうだった?」と女児に尋ねたら「カラーやった」と答えた。それは、家のテレビで見る野球中継はカラー放送ではなかったからである。皆で大笑いをした思い出がある。

昭和四十年代には、全ての家庭にテレビは普及していた。しかし、画像は電波状況が悪いため、雨が降っているような縦縞が入り、大変見づらかった。そのため、宮様山の尾根に共同アンテナが設置された。このアンテナを維持管理するために、テレビ組合が組織され全世帯が加入した。

【事業運営規定の一部】

  • 第二条 加入金は、世帯につき千円とする。
  • 第三条 維持費は、テレビ一台あたり一ヶ月三百円とする。
       一台増すごとに五十円を追徴する。
  • この規定は、昭和五一年八月四日から適用する。
       昭和六一年改正
  • 第三条 維持費三百円を三百円にする。

田舎でのクーラー普及は、都会に比べ随分と遅かった。夜は涼しく今のような熱帯夜は、ほとんど無かった。私の家は、昭和四十五年頃にクーラーを買ったと思う。今のような壁掛け式のクーラーではなかった。床置きの大きな箱のような物であった。とにかく、室外機の音がうるさかった。夜は音を小さくするため昼と夜の切り替えスイッチが付いていた。

ウソのような本当の話

昭和三十年代半ば頃までの話。今では信じられないような本当の話を、いくつかあげてみた。

昭和二十年代頃、菅江の県道を通る車は、一日に数台であったと思う。トラックのエンジンの排気ガスの臭いが心地よく、トラックの後を追いかけて臭いを嗅いでいた。

菅江の県道が舗装されたのは昭和三十六年頃であったと思う。それまでは、地道で雨が降ると水溜まりがたくさんできた。地道は車が通ると轍(わだち)ができ、かまぼこ形のように中央部が高くなってきた。その高くなった部分を年に一度ほどグレーダーで削り、平らにするのである。その後二週間くらいは石ころだらけの道となり、自転車に乗るのも苦労した。学校帰りの小学生は、「道イタメ」が来たと呼んでいた。

ほとんどの家がニワトリを数羽飼っていた。その他の家畜ではヤギ、ブタ、ヒツジを飼っていた家もあった。また、農耕用の牛も四頭いた。ブタは多産であり子豚がたくさん生まれた。そのブタが豚舎から逃げることがあった。近くの畑にいた人が逃げる子豚を必死で捕まえに走った。

昔は琵琶湖でたくさんシジミが採れ安かった。朝食は、しじみ汁が定番であった。残った貝殻を金槌で細かく割って、ニワトリに食べさせるのである。貝殻を食べさすと玉子の殻がしっかりと形成されるそうである。なお、貝殻を金槌で細かく割るのは、子供の仕事であった。また川にも生えている「セリ」をとりに行くのも子供の仕事であった。夜にニワトリが小屋に入って玉子を狙われることや、ヘビが玉子を狙ってニワトリ小屋に入ってくることもあった。

明治生まれの私の祖母が、隣のおばさんに「肩が凝った、お願いします」と夜に時々来ていた。祖母は、おばさんの背中の四カ所にカミソリで傷をつけ、そこに分厚いガラスでできた「吸玉」(すいだま・ヨーグルトが入っているような瓶)の中にマッチ二本に火をつけて入れ、傷口に当てた。「吸玉」が背中に張り付き、数分たつとその中に血液が吸い出され固まった。おばさんは「あー、肩が楽になった」と言っていた。そして処置が終わると、おばさんは「黒い悪い血が出るんや」と言って帰って行った。子供であった私から見ると恐ろしい光景であった。今から考えると、本当に肩こりが治ったのか疑わしいと思うのと同時に、無資格医療行為だろう。

昭和二十一年生まれの私が、中学二年生になった時、担任の先生から次のようなことを言われた。「今年の十二月で第一種原動機付自転車運転許可証の制度が廃止される。今のうちに免許を取りたまえ」早速私は免許を取りに行った。今から考えると私も先生も恐ろしいと思うのと同時に、無資格医療行為だろう。

息子がヨチヨチ歩きの昭和三十二年頃、自転車の荷台に大きな箱を積んで毎日、豆腐売りが来ていた。息子が自転車によじ登り、箱の中をのぞこうとした時、自転車が倒れて豆腐は見るも無惨な姿に・・・。私は豆腐を全部買い取って近所の人に食べてもらった。

昭和三十年代の始め頃、菅江も近江長岡行きの定期バスが通っていた。ある日、私の幼い子供がバスの前に立ちはだかりバスを止めてしまった。車掌さんが降りてきて子供を家まで連れてくれた。子供はバスを見に一人で出かけてしまっていたのである。

信じていた話

冬の夜遅い時間に大雪で自転車に乗らず、長岡駅から菅江まで歩く時は、タバコが何本か必要よ。加勢野の付近まで来たら質(たち)の悪いキツネがいるので、タバコの火で怖がらせるためや。

昭和一桁生まれの男性の話。
バイクに乗って帰宅する途中、夫馬の近くで道に迷って帰れなくなってしまった。毎日通勤している道なのに。あれは、きっとキツネに騙された道や。

雨がしとしとと降る夜「ひのくち」の木の下に大きな火の玉が出るんや、勤めている道なのに。毎日通勤している道なのに。きっとキツネに騙された道や。下駄を脱いで、下駄の歯を合わせた隙間からヒトダマを見ると、誰の魂かわかるんやで。

秋の夕方、うす暗くなりかかった頃、田んぼから一人リヤカーをひいて常性寺の近くまで帰ってきたとき、鐘撞き堂の屋根のあたりでヒトダマを見た。ソフトボール大の赤い火球がゆっくり何度も上下しながら、北から南に向かって動いたあと消えた。幻視でないことは確かだが、信じてもらえるかどうかわからないので、誰にも話さなかった。その頃、ヒトダマを見たという話はよく聞いた。

「キツネにつままれた」とは意外なことが起こったり、訳がわからなくなる様を言う。昔は日常的によく聞いた。大人にも子供にも信じていた様だ。キツネは古くから悪い動物として扱われたり、イソップ物語にも出てきた。キツネが人に化けて人を騙したりする動物としては有り得ない。もう一つ、夜の空に光ることもあると、実際にキツネに騙されることはあり得ない。もう一つ、夜の空に光る「ヒトダマを見た」という話もよく聞いたものである。これらの話は、近年まったく聞かなくなってしまった。何故だろう。

新横山トンネル工事と開通式

新横山トンネル工事作業場風景
バイパス道路の工事と新横山トンネル開通式 長浜市立南中のブラスバンド部
新横山トンネルの開通式 親子三代による渡り初め

死語になった『やんす』 ← 前のページ

次ページ → 自然 

PAGE TOP