古文書で見る江戸時代の菅江

菅江会館のスチールのロッカーには、過去の多くの書類が保管されている。毎年三月に区長交代時に、この書類の引き継ぎをしている。しかし、幾つもの箱の 中を確認することはできず、厳封のまま引き継ぎをしている。今回、何十年ぶりかに一つの箱を開けてみると江戸時代の古文書が入っていた。その多くは、彦根 藩や藩を通じて幕府に納めた金納や物納の覚え書きである。納めた各人の名前と金額が記されている。主なものを挙げてみると次のとおりである。

竹御検地帳(正保弐年七月・ 一六四六)

火縄銃が大量に使用されるようになると、板の盾では防ぎきれなくなった。火縄銃の弾丸は竹束を貫通することができず、竹の調達が全国的に広まった。

朝鮮人国役金割帳(天保三年・ー八三二)

江戸時代、徳川将軍の代替りや世継ぎの誕生などのさい、朝鮮王国から国書を携えて派遣された外交使節団。一六〇七〜一ハーーまで合計十二回の使節団が日本に来た。中山道や朝鮮人街道を通り、ソウルから江戸間で三〜四ヶ月を要した。大勢の人数のため莫大な経費が必要であった。その時に菅江の住民にも課せられた分担金。各人の名前と金額が記されている。「朝鮮通信使」という歴史的用語は、日本史の授業で知っている人が多いと思うが、菅江の住民とも関係があったとは驚きである。

琉球人国役金割帳(天保十四年・ ー八四三)

朝鮮通信使と同様、将軍の交代時に、琉球国王が幕 府へ派遣した使節。このときの経費が菅江の住民にも課せられた記録である。名前と金額が記されている。

日光御参詣御用金帳(文政七年・一八二四)

江戸時代に将軍家が日光に参詣(主に徳川家康の命日、四月十七日)膨大な経費を要した。お供する大名や旗本、動員される人馬も膨大である。安政五年(一七七六)の行列は、先頭が日光にあるとき、最後尾は江戸にあったとも言われる。これも菅江の住民に課せられた分担金の額と各人の名前が記されている。

江戸時代の古文書

検地帳(貞享四年・ 一六八七)

西丸焼出ニ付御用金受取(天保九年・ー八三八)

 おそらく江戸城西丸が焼失したために、割り当てられた分担金の覚え書き。

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