菅江の昔ばなし

菅江の昔ばなし (山東昔ばなし・山東町史談会編)

1.長延寺跡と金の鶏の櫃(ひつ)

菅江から長浜市南鳥羽上へ坂越で行く峠のあたりに、長延寺というお寺がありましたが、信長時代の兵火に焼き滅ぼされて、今はただ千鳥池という小さな井戸だけがその跡を残しています。峠から南へー〇〇m余り峰伝いに登って行くとそこが「萱場」です。戦前陸軍測量基地の三角柱の跡から少し離れて、長さ三m余り、一m角くらいの岩が五、六個あります。人が組み立てた物であろうと思います。
この岩組は昔から「朝日輝く、夕日輝く処に、金の鶏が埋められている」と、伝えられています。確かに金の鶏が埋められているかどうかが不明ですが、明治の初年頃、南鳥羽上の人がこれを掘り出そうと、此の岩の一つを崩した時、家族の人が急死したと知らせがあって驚いて帰ったと言います。その後これを掘り起こした人もなく、伝え聞くところでは聖僧(あるいは 長延寺の住職)が生きながら寺宝と共に埋められたと言うことで、未だに謎に秘められたままです。また、碧の跡だとか、先住民族の神様をお祀りした跡ではないかとも言われています。

2.菅江の窯跡

菅江に人々が住み始めたのは、二千年以上も前のことです。村の南西大谷山の山間に住んでいたのではないかと思われます。山の中腹には百人窟といわれる、洞穴もあります。息長族系の人々が住んでいたもようで、阿那郷とよばれる古い時代の帰化人の遺跡ではないかと思われます。この地をイワタ、祝田、岩田といい、のち岩谷にかわったようです。
これらの人々が須恵器の窯を築いて生産を営み、集団生活が始まったものと思われます。
岩谷は古代の窯業跡ともいわれ、土器の破片は付近の畑の中からいくらでも拾うことができます。最近になって、これらの土器はもっと古い時代のものらしいという説もでてきています。

3.正門寺の鬼瓦

菅江の氏神の北に小高い正門山があります。この山の中腹に毘沙門堂が建っています。古くから何回となく修理され、今も昔も同じ毘沙門天がまつられ信仰されています。この山の麓に正門寺と呼ばれた小寺(出家寺)があったと言い伝えられています。正門寺は、 戦国時代の末期、織田信長の兵火に焼き払われ、当時の遺物と言い伝えられている鬼瓦が残っています。鬼瓦は正門寺が無くなったあと「鬼門よけ」として 民家の庭に保管されていました。ところがこの鬼瓦の真正面の家には、いつも家人の誰かが腹痛をおこし、大へん苦しむというのです。とこ今は「釈迦堂」と呼んでいる
それで夜になるとそっと出かけていって鬼瓦の向きを変えてくるのです。ところが正面に当たる家の人がまたまた腹痛で苦しんだと 言うことでした。
そこで鬼瓦のある庭のまわりの人々が相談して、鬼瓦を毘沙門堂に奉納しました。それ以後腹痛で苦しむ者 がなくなったと言うことです。

 

菅江の雨乞唄

雨乞踊り唄がいつ頃作られ、歌われたものかは不明であり、雨乞踊りも昭和五年(ー九三〇)の大干葱が最後であると 雨乞は先ず氏神様の境内に勢揃い、拝礼のあと鉦と太鼓を鳴らしながら北坂山の頂の広場に至り、ここで 雨乞唄にあわせて天に響けとばかり賑やかに踊る。踊りのあとは村の広場で浄めの盃をかわして終わるのが慣例であったという。

菅江雨乞唄
雨乞かける道すがら
右手に月とる高松の
お庭に咲きたる八重桜
此に拝みし釈迦如来
おそばに立ちる毘沙門は
ここに立ちたる石塔は
清めの池とは是とかよ
いそげば程なく氏神へ
照りつめて三節の草も手を握る
はせ上がる雲のはげしき雨音よ
末ははるばる永けれど

山東昔ばなし「うたごよみ」より