渡来人がいた岩谷の洞窟

令和三年三月すえクラブの三人で伝 説の洞窟を探しに岩谷に入って行った。墓地から山に向かって谷沿いを奥へ奥へと歩いた。そこは幅約七十m、三百m以上続く平地である。たぶん昔は畑であったのだろうと話しながら歩いて約二十分、目的の岩場に到着した。二段、三段に重なった大きな岩は尾根のように露出し、両側は自然に土砂が削られ谷になっている。一段目の岩の周辺を探 しても洞窟らしきものは見つからない。もっと上の方も探そうとロツククライミングさながら岩を登った。正和さんの「あった!」の大声で他の二人は急いで登った。高さ二m以上、間口約三m奥行き約三mの大きな洞窟である。洞窟内には手掘りの棚のような場所がある。信仰上の何かを置いたように。壁面や天井は規則性の割れ目が良く発達した岩である。目的を果たせた三人は笑顔で「今日は来て良かったね」と異口同音に言葉が出てきた。「この場所は三人の秘密の場所にしておこう。誰にも言わないように」と秘密基地遊びをした幼少の頃を思い出しながら帰路についた。

渡来人がいた岩谷の洞窟

すえきまん
すえきまん

ちょっと話を変えて・・・・(このコメントは冊子にはありません)

あなたは、ご先祖の名前を知っていますか

自分の先祖やルーツを探ることは、ひとつのロマンである。 自分には父と母の2人の親がいる。そして、4人の祖父母がいる。8代先まで遡れば128人にもなる。下記の先人達は家族を養うため山裾や山の斜面まで開墾し、耕地を生み出してきた。時には過酷な自然に向き合い、また宿命とも言える災害にも耐えてきた。そして、いま菅江に住んでいる私たちへと命のバトンを繋いでくれた。もし出会えたら「あなた様が私のお爺さん のお爺さん、そのまたお爺さんですか?」「ここはどこの国じゃ ?うまいもんを食って、いい生活をしとるのを、ワシの開墾した畑は、どうなっとる?」こんな会話かも。

藤十郎弥右エ門市良兵衛又左エ門
惣兵衛長左エ門孫太夫権兵衛
又四良三良助兵右エ門長兵衛
三良兵衛半右エ門藤太夫久太夫
惣兵平兵衛吉兵衛並右エ門
清兵衛助太夫惣左エ門傅四郎
八蔵善左衛門作左エ門治良太夫

元禄13年(1700)〜元文5年(1740)頃に、菅江に住んで いた人(世帯主)の名前。長浜市今川町「光台寺」過去帳より抜粋。明治28年頃まで、菅江の全世帯は光台寺の門徒であった。