菅江のあけぼの

菅江には、いつ頃から人が住み始めたのだろう。横山山地の北には垣籠古墳群、南には息長古墳群が分布している。これらの古墳は、調査の結果、三世紀から六世紀前半に作られたようである。その中間に位置する菅江にも人が住んでいたと推測できる。

大谷山の古墳の画像

大谷山の尾根には、古墳らしき石積みがある。確実に古墳であるかどうかは、今後の調査を待たなければならない。それ 以前の米作りが始まるのが弥生時代。米原市内でも水田跡が確認されている。菅江は山麓の湿地帯である。湿地は米作りに適してい れている。これらのことから二千年以上も前から人が住んでいたと考えることができよう。

菅江の地名

「須恵」(滋賀県竜王町)、「陶」(山口県)、「須江」(宮城 県) など全国に「すえ」の地名が見られる。いずれも陶器の生産に由来する。 いつの時代から「菅江」の漢字が使われるようになったかは不明である。「菅」のつく地名は全国に一〇〇近く分布する。いずれも「菅・スゲ」の多い土地。滋賀県では菅浦、菅並など菅の付く地名がある。「江」は湿地帯の意味である。菅江はスゲが沢山生えている湿地帯という意味ではないだろうか。

菅江村 寛永(1624〜44) 石高帳に村名がみえ、高233 石余。 彦根藩領「元禄八年大洞弁天寄進長」 (1696年)では、人口 179人。 

滋賀県の地名 平凡社

古くは「陶江」と書いて、この地で須 恵器生産が行われていたことによるという。村の入り口には日蓮宗理合山双林寺があった。明治13年頃の村の状況は、道路険悪で運輸は人背に頼り、水不便で旱害に苦しんだ。戸 数 33、人口 126 

角川日本地名大辞典

菅江の小字名

菅江には、次のような小字名がある。

  • 大町(五坪)
  • 西大町
  • 縄地(東山縄地)
  • 森本(町田・野神)
  • 前田(海道・中海道)
  • 栃ケ谷(星ケ谷・ハセヲ・小野・栃原)
  • 南谷(岩谷・南谷)
  • 柳原(尾鼻)
  • 最谷(細田・山田)
  • 東谷(池田)
  • 深田
  • 出口
  • 宮ノ谷
  • 番場
「野神」の冬景色 現「ふれあ、法場」付近の画像
「野神」の冬景色 現「ふれあ、法場」付近

五坪について   条里制の名残である。奈良時代に水田を同じ大きさの区画にそろえて管理しようという制度。近隣の集落、山室には四ノ坪、五ノ坪、八ノ坪また、本郷にも六ノ坪、九ノ坪の小字名がある。長浜市には条里 制に関わる地名七条町、八条町、小一条町や十里町の地 名がある。

野神について  野の神がやってくる場所。古来より日本では農耕神をまつる習俗があった。子供の頃によく野神山で遊んだ。南斜面で大きな岩があった。その斜面 を寝そべって、転がっていたので子ども達は「ゴロンゴロン山」と呼んでいた。今は、バイバス道路の建設によりなくなってしまった。

高屋について  ため池の背後にある谷を高屋という。 谷であるのになぜ高谷と書かないのだろうか。菅江と鳥羽上の境にあったのが鳥羽上城である。城主は京極氏であった。その家臣に「高屋氏」がいた。この付近の管理を任されていたのが高屋氏ではなかったのだろうか。そこから「高谷」ではなく「高屋」という小字名が残っていると、推測することができる。

菅江小字名の入った地図

 

菅江遺跡(登り窯跡)

現地調査が昭和六一年七月一日から十月六日まで、実施された。次に掲載する資料は、「菅江遺跡発掘調 査報告書」(山東町教育委員会-発行)から抜粋。

  だいじに大事に使われていた窯
通称「横山」の北端近くから、東へ舌状に突き出た小高い丘。 その南面の傾斜ぐあいが、いかにも「登り窯」の構築に適して いるように見えました。杉・檜などが植林されていましたが 「灰原」と思われる辺りには、無数の土器片が散乱していました。この丘に接する集落の名前は「菅江」と呼ばれています。 ここは、須恵器を焼いた窯のあったところと伝えられる周知の遺跡でした。それが、土砂採取によって、平地化されることになりました。また一つ、私たちのふる里から、祖先の “なりわい〃を彷彿させる遺跡を失ってしまうのです。残念です。惜しいと思われます。申し訳ないとさえ思えてなりません。しかし、施工主の花沢工務店の理解と好意、区の人々 の協力によって、事前に発掘し調査することが出来たことは、何より嬉しいことでした。何回も何回も修理した跡があり、私たちの先祖が、いかに大切に使ってきた窯であったことをもの語っていました。  〜以下略〜

昭和六二年三月 山東町教育委員会 教育長 西秋 良策
小坂山(通称)が家の西側に迫っていた
発掘調査報告

横山丘陵東側に派生する現在菅江集落 南の舌状丘陵南側斜面に一号窯体はあり、地下を掘り下げた半地下式登り窯である。窯体は焚口を失っているので全長は不明であるが、現存する焚口と思われる部分から煙道部まで全長四・四mを測り、焼成部下半分で最大幅約一・五mを測る。天井部については確認するに至らなかった。横山丘陵が菅江遺跡も含めて生産遺 跡群として出現したことは、当然その生産物を供給する場所が存在していた故であり、十七棟以上の掘立柱建物跡、多数の遺構と木札や多くの土器が出土し、郷長クラスの遺跡とされた北方田中遺跡をはじめとして、広範囲におよぶ集落において使用されていたことは想像に難しくない。二号窯については消失していた。

山東町教育委員会
菅江遺跡の発掘調査

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